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福島県飯舘村と相馬市に救援物資を届けました。

text by

小泉龍司

2011.04.11

(1)4月3日(日)~4日(月)、福島県飯舘村(役場)、及び相馬市(避難所)に救援物資を届けてきました。
 地元を朝9時に出発、3月19日に全線開通となった北関東自動車道を経由して、東北自動車道から福島市へ。そこから山あいの県道を約1時間、浜通り方向へ走り、午後2時半頃に飯舘村の役場に到着しました。
 飯舘村は、村の一部地域が福島第一原発から20~30km圏の「屋内退避指示」地域に指定されるとともに、福島第一原発から北西方向に吹き上がってくる風の影響で大気中の放射線量や土壌中の放射能の数値が周辺地域に比べて高いため、生活物資が届きにくくなっているとの情報があったので、飯舘村の役場を目指しました。
福島市内は人通りが少なく、特に県道に入るとすれ違う車もほとんどなく、民家も雨戸やカーテンが閉まっているため、はじめは様子が分かりませんでしたが、後で役場で伺ったところによると、飯舘村には人口6千人のうち5千人近くの方が居住されているとのことでした。
 飯舘村役場は日曜日のため菅野典雄村長他10名ほどの職員の方が対策本部に詰めていましたが、生活物資を車から降ろした後、村長室で1時間余り菅野村長さんからお話を伺うことができました。菅野村長さんの話の趣旨は次のようなものでした。

①飯舘村は、昔は福島県内でも「霜が下りた」くらいしかニュースにならなかった村だが、様々な努力を積み重ね、豊かな農産物と飯舘牛のブランド化を成し遂げ、また企業の誘致も行うとともに、村の中で資金が循環する工夫をこらした上での村独自の子育て支援策など、手作りの村づくりを続けてきた。
②しかし今や、放射線被害の数値が最も高い地域として、誤報も含めてマスコミ報道にあおられて、大きな風評被害をこうむっている。
現実には、空気中放射線量も水道水も土壌も国の基準値を下回っているし、数値も除々に下がってきている。
③飯舘は「反核のまち」になるつもりはない。むしろ、今回の被害を乗り越えて復興を成し遂げて、世界に範を示す復興のモデル地区として頑張っていきたい。
④政府においても是非この点を理解して頂き、様々な支援を真剣に与えてもらいたい。

(2)こうした緊急事態の中にあっても、冷静さを失わず、飯舘村の将来を見通して問題に対処されようとする菅野村長さんのお話と姿勢に深く感銘を受けました。私が直ちに政府の対策本部に話を伝えることをお約束すると同時に、菅野村長さんご自身を官邸にお連れしますと申し上げたところ、是非そうしてもらいたいとのことでしたので、その場から政府対策本部に電話を入れ、後日の官房長官ないし副長官との面会の確約を取りました。

(注)4月7日(木)の午後7時30分から約1時間20分、首相官邸で、福山官房副長官に、菅野村長さんを引き合わせることができました。避難地区指定の問題も含め、飯舘村と政府、双方の悩みを率直にぶつけ合い、非常に密度の濃い意思疎通を行うことができました。 菅野村長さんからは、今後の支援も強く要請されました。

(3)日没までに相馬市の避難所に着くために、東京での再会を約して、午後4時頃飯舘村を後にしました。海岸に向けて走り、南相馬市で6号線に出て北上、相馬市に入ると右手方向に津波被害が大きく広がってきました。
海岸線は遠く海も全く見えませんが、津波が到達したラインがはっきり分かります。その境目の向こう側にはありとあらゆる瓦礫が散乱し、田畑と道路をおおっている一方、その境目のこちら側は何事もなかったかのような風景が広がっており、改めて、津波被害の深刻さを思い知らされました。

(4)夕方6時前に、相馬市・飯豊小学校体育館の避難所に到着し、食料・衣類・日用品などの救援物資を下ろして、避難所の中に立ち寄らせて頂きました。避難所には相馬市の植村恵治市議会議員がいて、詳しく現状を聞かせて下さいました。
 相馬市では亡くなられた方が約350人、今なお行方不明の方が400人以上、避難者の方約2500人いらっしゃるとのことでした。
 食事は一日2回、ついこの間までは温かい食べ物は口にできなかったそうです。植村市議ご自身が被災者ですが、この避難所のリーダーとして先頭に立ち、この日もハンドマイクで相馬市災害対策本部の会議の内容を分かりやすく説明されていました。避難者の方々も一つ一つ頷きながら聞いておられました。
 まだ行方不明の方が大勢いること、また原発問題の見通しが立たないために、相馬市は未だ本格的な復興に向けて立ち上がれない、という植村市議のお話が今も耳に残ります。
 避難所を出る前に植村市議から避難者の方々に激励のご挨拶をと言われて、固辞したのですが、どうしても、ということでしたので、初めて植村市議にも名刺をお出しした上で「埼玉から参りました。地元の皆さんがみんなで応援しています。東北地方は関東が支えるという思いで、私の地元の皆さんはいます。長い戦いになると思いますが、何としても頑張り抜いて下さい。」とお見舞いの言葉を申し上げました。

(5)立ち去り難い思いでしたが、夜8時頃に仙台に向けて車に乗り、夜の6号線を北上しました。途中、ヘッドライトを消すと真っ暗闇の地域がありました。そこは津波が押し寄せた地域で、全壊や半壊の家ばかりで夜になると一帯には全く灯りは見えませんでした。
 夜10時半頃に仙台に到着。翌朝は仙台市宮城野区のボランティアセンターを訪問し、ボランティアセンター長の加藤和美さんにお話を伺いました。
 ボランティアセンターでは、100人近い若い方々が真剣な表情で活動の準備を進めていました。

(6)被災地では多くの方々が、我々の想像を超える深い苦しみの中にあり、今も復旧の目処が立っていません。加えて日々、原発事故の脅威と不安にさらされています。
 しかし、その中で菅野村長さん、植村市議、加藤さんはじめ多くの方々が、しっかりと地に足をつけて踏ん張り、この苦しみを乗り越えていくために日々懸命に闘っていらっしゃる姿に接し、言葉にできない思いに胸がつまりました。
 理不尽で不条理な自然の脅威の中で、我々が共に生きていくための道はただ一つ。すべての国民の心を合わせて、被災者と被災地の悲しみに寄り添い、これからずっと支えていくことしかないと思います。 私の周りの多くの方々が、その思いを胸にして下さっていることをひしひしと感じています。皆さんのそうした力を頂き、その力を合わせながら、引き続き私も全力で行動を続けて参ります。

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